「ピーターセン・ミュージアム」地下で「マラネロ・マスターピース」開催(その1) 125S、212

ロスアンゼルスにある自動車博物館「ピーターセン・ミュージアム」が、今年で30周年を迎える。地下はミュージアムのバックヤードとなり、数々のコレクションが眠っているが、その一部が「THE VAULT」として現在一般公開されている。フェラーリのコレクションとしては、レジェンドギャラリーで映画「フェラーリ」に関する特別展示を開催。「マラネッロの傑作」と題して1947 年の 125 S から 1987 年の F40 まで、エンツォの存命中に製造されたフェラーリを中心にディスプレイがされている。ここでは、古いモデルを中心に紹介させていただこう。

入り口にディスプレイされていたエンツォ・フェラーリの説明は以下のとおり。

「ボローニャのコッパ・フローリオで初めて自動車レースを観戦した10歳のエンツォは、このレースに深く影響をされ、12年後生まれ育った家を売ってレースカーを購入。その後20年間、アルファロメオでレースカーをドライブしたのち、アルファのレース部門であり彼自身のレースチーム、スクーデリア・フェラーリを率いる。
第二次世界大戦勃発後、ヨーロッパのモータースポーツ活動は中断され、フェラーリは軍用の工作機械の製造で生き延びたが、戦争が終わる頃、エンツォは速いクルマの製造に戻ることを切望。その後、戦前のアルファ時代のエンジニアリングチームの多くを再編成し、斬新な小排気量 12 気筒エンジンを搭載した、新しいレースカーの開発に着手していき、

フェラーリはスピードとスタイルの代名詞となる会社を築き上げていった。

1947 年の 125 S から 1987 年の F40 まで、エンツォの存命中に製造されたフェラーリ車は、自動車史上最も影響力があり、人気があるとともに、エンツォの死後、イタリア・マラネロの工場から出荷された車は、高性能自動車の評価基準となり、彼の遺産を引き継いでいる」

1947 フェラーリ 125 S

1947年5月にデビューした125 S は、フェラーリの名を冠した最初のモデル。エンツォ・フェラーリは、アルファロメオのレーシングチームの責任者だった頃から、12 気筒エンジンに魅了されていた。第二次世界大戦後、自分の名前を冠した車の製造に着手したとき、フェラーリはアルファの元同僚でエンジンデザイナーのジョアッキーノ・コロンボに協力を依頼し、排気量わずか 1.5 リットルの V12 エンジンを製造。伝説のコロンボ V-12 エンジンは、その後 40 年以上にわたり、排気量は最大 4.8 Lに拡大。ロードカーやレースカーの多くに搭載されていった。

フェラーリ 125 S が1947 年にピアチェンツァ・サーキットでレースデビューした際のドライバーはフランコ・コルテゼ。この時はウォーターポンプの故障により完走できなかったが、2 週間後、再びコルテゼの運転で初勝利を収め、モータースポーツの歴史に偉大な伝説を残す。

エンジン:1.5リッターV12 118馬力

ロジャー・ウィルバンクスコレクション

1952 フェラーリ 212/225 インテル バルケッタ スーパーレッジェーラ

これまでに製造された最後のフェラーリバルケッタ (イタリア語で「小さなボート」の意味) であり、コーチビルダーのカロッツェリア・トゥーリング・スーパーレッジェーラがボディを製作した、最後の非レース用フェラーリ。ヘンリー・フォード 2 世の名でフォードモーターカンパニーが注文し、レース向けの 3連キャブレターに225 エンジンと左ハンドルで納品された個体。

フォード・サンダーバードの開発中に当時のデザイナーによって評価され、エッグクレート グリル、ボンネットスクープ、全体的なプロポーションなど、1955 年型サンダーバードの数多くのデザイン要素に影響を与えたと考えられている。

212 インテルのボディは複数のコーチビルダーによって製造。1952年、スイスのフェラーリ輸入業者ジョルジュ・フィリピネッティは、ピニンファリーナデザインのボディを搭載した 212 インターカブリオレを注文。これはピニンファリーナボディを搭載した最初のフェラーリとなり、マラネッロと伝説のカロッツェリアとの長く実りある関係の始まりとなった。

エンジン: 2.7リッターV12 210馬力

製造台数: 1 (212に225エンジンを搭載)

ピーターセン自動車博物館のコレクション、マージーとロバート E. ピーターセンの寄贈

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